アンリ・カルティエ=ブレッソン展





St-Lazare Station,Paris 1932





Paris 1952





ブレッソンからのメッセージ

梶川芳友


アンリ・カルティエ=ブレッソンから、一度巴里に来ませんか、という手紙が届いたのは1996年の秋であった。
翌年の1月13日、私は初めてブレッソンのアトリエを訪ねた。ルーブル美術館に隣接するチュールリー公園の見えるリボリ通りに面したところで、かつて、セザンヌが3階、マネが4階に住んでいたというアパートの最上階の5階がブレッソンのアトリエだった。パリでも一番古いと思われる手動式のエレベーターの中で、私は非常に緊張していたことを懐かしく思い出している。

3日間、ブレッソンのアトリエに通い、作品を選ぶことになる。彼は自分で何百枚という写真を持ってくる。コピーであったり、書物であったり、オリジナルであったり、それらを大きなテーブルの上に一枚ずつ並べて、「イエスかノーか即座に言え」というのだ。私は冷や汗をかきながら、最終的に120枚を選んだ。5,6点を選ぶまでのブレッソンの顔と、その後の彼の顔は、まったくちがっていた。作品の選択が終わると「このコレクションは世界中で一番気に入ったものになった」と話してくれた。

ブレッソンはメキシコ、スペイン、アメリカ、インド、ロシア、中国、日本・・・など世界中を歩いた。ガンジーの葬儀、ロシアの解放、スペインの内戦前夜など、文字通り「決定的瞬間」を撮り続けた。そのことについて、ブレッソンは「匂いがする」と語ってくれたように思う。ブレッソンが写真家であった時代は、この地球のどこの都市にも固有の匂いがあり、しかも人類としての共通の何かが感じられた時代だった。彼は、その匂いを撮ろうとしたのかもしれない。そこにカメラの現場を発見していた。たしかに、写真でなければ表現しえない世界があったのである。

ブレッソンは時代を撮った。つまり人間を撮った。カメラの現場とは、そこにしかないのかもしれないということを、カメラを放棄した彼の現代への批評精神とみるべきではないだろうか。少なくとも私には、人差し指一本で撮れる写真であればこそ、撮ることには資格がいる気がしてならない。




年譜


1908 8月22日、フランス、セーヌ・エ・マルヌのシャントルーに生まれる。
1927-28 アンドレ・ロートに絵画を学ぶ。
1931 コート・ディヴォアールで1年を過ごし、ヨーロッパに戻り写真を始める。
1932 ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで初個展を開く。
マドリッドで写真展。最初の写真集を出版。
1936 ジャン・ルノワール監督の助手をつとめる。
1937 スペインの病院のドキュメンタリー映画「生命の勝利」を制作。
1940 ドイツ軍の捕虜となり、三度目で脱出に成功する。
1943 マティスやボナール、クローデルらの芸術家のポートレイトを写す。
1946 アメリカに戻り、戦死の誤報によりニューヨーク近代美術館が企画していた追悼展を完成させる。
1947 ロバート・キャパ、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらとともに、マグナム・フォトスを設立。
1948-50 東洋で3年間を過ごす。インド・ビルマ、パキスタン、中国を取材。インドネシアでは独立の瞬間を目撃。
1958-59 中華人民共和国建国10周年の際、3ヶ月中国に滞在。
1960 キューバでルポ、メキシコに3ヶ月間滞在後、カナダへ行く。
1965 インドに6ヶ月、日本に3ヶ月滞在。
1974 この年以来デッサンに集中。
1981 フランス国立写真グランプリ受賞。
1986 パレルモにてノヴェチェント賞受賞。
1989 パリ国立写真センターによりHCB賞が創設される。
1997 120点のオリジナルプリントが何必館・京都現代美術館に収蔵される。
2003 アンリ・カルティエ=ブレッソン財団が設立される。








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2,800円


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