器と書と写真 北大路魯山人展




つばき鉢 1938年


備前旅枕花入

備前旅枕花入 1958年
双魚絵平鉢

双魚絵平鉢 1935年




野に遊ぶ 魯山人

梶川芳友


魯山人の言葉に「自然美礼讃一辺倒」というのがある。
この八文字は彼の創造への探究心を表現しているが、同時に彼の人生観そのものであり、独立独歩の人であった魯山人の風姿を映す言葉でもある。たしかに、魯山人の美の極致は、自然にある。
私は、いつしか魯山人を自分の部屋から、そして美術館から解き放してみたいと思うようになった。彼の作品をもっと広い自然の中に連れ出したくなっていた。まだ見たことのない魯山人に出会えるような気がしたからである。

「努力といっても、私の努力は遊ぶ努力である」という魯山人に想いを馳せ、四季にわたって、上賀茂、近江路、洛北大原、そして花折峠へとたずね歩いた。あざやかな季節の移ろいの中で、私はそれぞれの魯山人と戯れていた。花・水・風・雪と、四季のなかでよりいきいきと生命の輝きを増す作品を前にして、彼の美意識の深さに驚嘆させられたのである。

京都は千年の時間をかけて、日本文化を熟成してきた都である。その根底にあったのは、自然と共にあることを理想とした精神であった。その精神を魯山人の作品のなかにみることができるだろうし、無冠の野人であることを選んだ芸術家の生涯が、端的にそのことを物語っているだろう。

晩年の魯山人は、星岡茶寮を追放されたのを期に、鎌倉の山中に居を構え、書作と作陶三昧の暮らしに入った。世俗を離れ、山鳥のように太陽とともに目覚め、日が沈んで眠る。自ら雅号を「夢境」と定め、おもいのまま野に遊ぶ魯山人がここにいた。




年譜


1883 3月23日京都府愛宕郡上賀茂神社の社家北大路清操、とめの次男として生まれる。本名房次郎。
1889 福田武造の養子として入籍。武造は木版師。上京区丸太町の梅屋尋常小学校に入学。
1893 梅屋小学校卒業。卒業と同時に「千板わやくや」に丁稚奉公に入る。
1896 養家に戻り、木版業を手伝う。
1899 当時流行の西洋看板書きにより、収入を得、書の研究に打ち込む。
1904 日本美術展覧会書の部に出品、1等賞を受け、宮内大臣田中光顕子爵に買い上げられる。
1905 京橋南鞘町に住む町書家岡本可亭に師事、住込みの弟子となる。
1907 岡本可亭を辞し、中町和泉町に借家し、書道教授の看板をかかげ、福田鴨亭と号す。看板、版下書き、書道教授をもって生計を立てる。
1919 中村武四郎と共同で「大雅堂芸術店」を開店。
1921 大雅堂美術店経営のかたわら、同人組織美食倶楽部を発足させる。
1925 星岡茶寮を開く。
1926 北鎌倉在山崎の借地の一角に築窯。
1927 北鎌倉山崎に「魯山人窯芸研究所」発足。
1936 星岡茶寮を追われる。9月より1年間、荒川豊蔵、山崎の魯山人窯芸研究所に滞在。
1938 6月『雅美生活』創刊。
1942 漆器制作に専念する。
1945 星岡茶寮、空襲により全焼。
1946 銀座5丁目に、魯山人工芸処「火土火土美房」開設。窯場を「魯山人雅陶研究所」と改称する。
1951 パリのチェルヌスキー美術館にて「現代日本陶芸展」開催。魯山人の作品も出品される。イサム・ノグチ、山口淑子夫妻、山崎の魯山人邸の一棟、田舎屋に入居。
1954 アメリカ、ヨーロッパ各地を行脚。ニューヨーク近代美術館にて「魯山人展」開催。
1955 重要無形文化財の指定を受けるよう勧められるが固辞する。
1959 ジストマによる肝硬変にて、12月21日午前6時15分死去。西方寺に埋葬される。








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記念出版
野に遊ぶ 魯山人

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雅美生活
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魯山人への手紙  梶川芳友著

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北大路魯山人ポストカード A (8枚組) 1,000円
北大路魯山人ポストカード B (8枚組) 1,000円
北大路魯山人ポストカード C (8枚組) 1,000円
北大路魯山人ポスター 1,000円

北大路魯山人ビデオ
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