没後180年 良寛遺墨展

 

 

会期

2010年 6月 4日(金) 〜 7月19日(月・祝)

開館時間

10:00〜18:00 (入館は17:30まで)  
月曜休館 (7/19は開館)

入館料 一般1,000円 学生800円
記念出版

「 没後180年 良寛遺墨 」 (3,000円)

主催 何必館・京都現代美術館
後援 全国良寛会

 

「 君看雙眼色 不語似無憂 」  何必館光庭

 

 本年は良寛没後180年にあたります。
 良寛(1758〜1831)は、新潟県出雲崎の大庄屋の長男として生まれ、18歳で剃髪後、禅寺で修行を積みます。しかし、良寛がそこで見たものは、僧侶の堕落した生活と、浅薄な道心であり、「僧に非ず、俗に非ず」と覚悟を決めた良寛は、ふたたび故郷へ戻り、生家の傍で乞食行を自らに課し、どこまでも深く自問自答を繰り返し、内省的な日々を過ごしながら、数多くの作品を生み出します。
 それらは「人間の是非、看破に飽く」と放下し、任運に転ずる良寛の、滔々たる自然の姿そのままの書といえます。
 今回、比叡山延暦寺にて行われる、180年忌法要を記念し「良寛遺墨展」を開催いたします。
当館所蔵の「君看雙眼色 不語似無憂」「土波後作」「手毬屏風」「戒語」をはじめ「草庵雪夜」「題蛾眉山下橋杭」など、何必館コレクションを中心に、約50点を展覧いたします。
 これまでにない、良寛の名品による展覧会を是非ご高覧下さい。

 

「 君看雙眼色 不語似無憂 」

 

 

「 自画像 」

 

 

「 解良叔問宛書状 」

 

 

闘う沙門良寛 

 良寛は、出雲崎の大庄屋山本家の長男として生まれ、幼いころより漢籍や和歌などの素養を身につける。十五歳で元服し、十八歳の時に名主見習として家業を継ぐが、若い栄蔵(良寛の俗名)には負担であったのだろうか突然、曹洞宗の禅寺光照寺に入り、出家する。そこで修行を積み、やがて備中玉島の円通寺で、約十年、禅僧としての厳しい修行を行う。

 こうして良寛は、国仙和尚の偈をうけ、同じ円通寺の中に塔頭まで与えられるのだが、すべてを棄て、敢然とその場を去るのである。
 その後、良寛の行方は遥として知れなくなるが、近藤万丈の書物『寝覚めの友』に土佐で会った、という記述があることから、諸国行脚の時期と一般的にはみられている。
 しかし私は、この空白の七年間の一時期、三十三歳から三十九歳という壮年期に良寛は中国に渡っていたのではないか、と推測している。

 あれほど雲水としての厳しい修行を積んでいた良寛が、最澄や空海など我が国の宗教者が学んだ、いわばその根幹ともいえる中国の天台山や禅の故郷である天童山へと、行かないわけはないと思うからである。
 しかし、『正法眼蔵』の教えを実践しようと死を覚悟して行った先の中国で、良寛が見たものは、果たして良寛が望んだものだったのだろうか。恐らく、それは中国仏教界の頽廃、人を救う道とは反対のものだったのだろう。結果、良寛は挫折し、絶望したのではないか。

 こうして日本に帰ってからは、一介の雲水として草庵に住み、人々の喜捨を受けながら、乞食行脚に出、座禅を組む生活を送り、好きな言葉や詩歌で書をしるし、子ども達と俚謡や手毬つきなどに興じていたという。
 それがみせかけの姿ではなく、ごく普通に実践できたということは、いかに沙門良寛として〔強い芯〕のようなものを持っていたかが窺いしれる。
 良寛が自分自身を戒める言葉として持っていた「僧伽」という詩がある。

    落髪して僧伽となり    食を乞うて聊か素を養う
    恩を棄てて無為に入り   是非をば等間になす
    縦え乳虎の隊に入るとも  名利の路を践むこと勿れ

 乳虎とは子持ちの虎のことであり、一番凶暴な恐ろしい虎のことである。名利の道に踏み込むぐらいなら、その虎の群れに身を投じん。
 穏やかな良寛からは想像もできない激しい言葉である。
 この長詩は、隆泉寺良寛の墓碑の表面に刻まれている。
 没後、碑になってからでさえもなお、自らを厳しく律する姿。これこそが、良寛の本質であり、良寛の求めた道ではないだろうか。

何必館・京都現代美術館長 梶川 芳友

 

 

「 草庵雪夜 」

 

 

「 自 然 」

 

 

「 題蛾眉山下橋杭 」

 

 

「 手毬屏風 」 六曲一双

 

 

-  記念出版  -

「 没後180年 良寛遺墨 」


価格:3,000円

 

 

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