|
![]() 白磁壺 1931年 |
![]() 白磁壺 1931年 |
|
壺中愛憎 梶川芳友 |
|
この端正な姿は、どこから来るのであろうか。
私は最晩年の富本憲吉を、京都山科に訪ねたことがある。知的な老紳士、陶芸家というより文筆家という印象であった。若き日、建築デザインを志し、ロンドン留学を果たした名家の御曹子という雰囲気も感じられた。 大正2年、バーナード・リーチとの出会いによって陶芸家への道を歩み始めた富本憲吉は、郷里大和川河畔で写生中、農家の軒下で犬の餌入れに使われていた白磁鉢に強い影響を受ける。それがきっかけで、李朝白磁への関心が高まり、朝鮮行きを決意する。 柳宗悦から浅川伯教・巧兄弟を紹介され、李王家博物館や各地の窯場を見学して廻る。数々の名品や名工との貴重な出会いから多くを学び、かつ模倣に沈むことなく自分の方向を探ってゆく。帰国して幾度も試作を重ねた末、彼独自の白磁が姿を現わしてくる。 「形は身体骨組であり、模様はその衣服である。模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になった人体の美しさは人皆知るところであろう。」 艶やかな器面を白光が流れ落ちる。磨きぬかれた肌に冷ややかさは微塵もなく、生命のぬくもりと高い品格を漂わせている。 古来より、女性の肌に喩えられる白磁。その造形には妻一枝への激しい愛憎が秘められている。 著明な日本画家の娘として生まれた尾竹一枝は、『青鞜』の平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝らと共に、日本で最初の婦人解放運動を牽引した一人である。 平塚らいてうの“恋人”といわれ、強烈な個性と行動力を備えていた彼女は、生涯を通し自由奔放に振舞った。夫の創作に対しても容赦のない批判を浴びせる。その言葉に激怒した憲吉が、自宝としていた作品を叩き割ることもあったという。憲吉は、一枝の美しさに惹かれながら、その女性を妻にした男の現実生活に苦しみ続ける。 会う度に繰り返される口論。傷つき、疲れ果てた生活は二人を別居へと導いてゆく。面取りされた白磁の光と影が、彼のそんな裸の心を映し出す。 昭和24年、富本憲吉は弟子であった石田壽枝と共に、新しい生活を始める。彼女の慎ましい配慮は、老いてゆく芸術家の心を癒してゆく。 回転する轆轤の上で、さまざまな思いが交錯する。揺れ動く時代の狭間で喘ぐ旧家の主として、また新しい男女関係を模索してきた一人の人間として。壺中に生涯の孤独と歓喜を封じ込めた。 昭和38年6月8日、肺癌のため逝去。故人の意志を尊重し戒名はない。遺書には「墓不要、残された作品を我が墓と思われたし」と。 |
| 年譜 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
![]()
|