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太子樹下禅那之図 1938年
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太子樹下禅那 梶川芳友 |
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誰にも生涯を決定するふしぎな邂逅というものがある。 私と村上華岳との場合がそれである。昭和38年近代美術館京都分館で、村上華岳展が開催され、百数十点の作品が展示されていた。出品されていた中の一点で「太子樹下禅那」という作品の前に立った時、これまで体験したことのない、身ぶるいするほどの衝撃的な感動を受けた。 それは、絵が巧いとか、色が美しいとかいうものと違って、こういう人が、この世の中にいたのかという驚きであった。 そしてその絵の前に向かって一人の老人の合掌しているのが、遠くから見えた。絵に対する感動か、ただ佛画としてであったのかは知らないが、印象的な光景で、いまもなお忘れがたい。 私は、この一点の作品によって、自分の生涯を美術のことにかけようと決心した。まさしく、私にとっては、運命的な邂逅だったとしか、いいようがない。 そして、そのとき、この作品は、自分のものになるのではないか、という妙な予感と、この作品が傍にあれば、安心して死ねるという思いを持った。どうして、そのようなことを考えたのか、いまもってわからない。 しかし、それは、いいかえれば、私に、いかに死ぬべきか、ということを、黙示しているように思われてならなかった。 いま、この作品を、何必館の床の間に掛けて、対座していると、限りない感慨が湧き上がってくるが、その一つだけを取り上げてみると、この「太子樹下禅那」との邂逅は21歳のことであったから、なによりも、まず、私の青春を感じないわけにはいかない。 それは又、尼蓮禅河畔、菩提樹下で座禅修行する、若き日の悉多太子の青春に対する憧憬であったのかも知れない。 そこで思い出すことは、その青春時代に「死」を考えたことである。 その「死」は、厭世的なもの、虚無的なものではなく、むしろ逆に、生きることを、はっきりと自覚するために、死を考えるということであった。 そうした、かけがえのない、生きるための重大な問題を、問いかけてくれたのが、この作品であった。この「太子樹下禅那」の一作が、あらゆる私の考え方、仕事の出発点になっている。私にとって、かけがえのないこの作品を生みだした画家、村上華岳を私は知らない。 しかし今、この作品と対座していると、華岳のきびしさ、ゆたかさが伝わってきて、おのずから心洗われ、心あたたまるのである。 |
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年譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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