村上華岳作品室


作品室



村上華岳(1888〜1939)は近代日本美術を代表する日本画家である。
不思議な美を蔵している華岳の描線には、独自の感情と無限の精神力がある。「制作は密室の祈りなり」という村上華岳の言葉には、芸術の深淵をかいまみた恐ろしさと厳しさを感じる。
『太子樹下禅那之図』は菩提樹のもとで座禅修行する若き日の悉多太子を描いたものであるが、華岳が描いた数多くの仏画の中で、最も美しく高貴な作品である。



太子樹下禅那之図

太子樹下禅那之図 1938年


秋寂

秋寂 1938年
山嶽図

山嶽図 1938年




武庫山春雲 1936年




崔嵬繊月 1936年




太子樹下禅那

梶川芳友


誰にも生涯を決定するふしぎな邂逅というものがある。
私と村上華岳との場合がそれである。昭和38年近代美術館京都分館で、村上華岳展が開催され、百数十点の作品が展示されていた。出品されていた中の一点で「太子樹下禅那」という作品の前に立った時、これまで体験したことのない、身ぶるいするほどの衝撃的な感動を受けた。
それは、絵が巧いとか、色が美しいとかいうものと違って、こういう人が、この世の中にいたのかという驚きであった。
そしてその絵の前に向かって一人の老人の合掌しているのが、遠くから見えた。絵に対する感動か、ただ佛画としてであったのかは知らないが、印象的な光景で、いまもなお忘れがたい。
私は、この一点の作品によって、自分の生涯を美術のことにかけようと決心した。まさしく、私にとっては、運命的な邂逅だったとしか、いいようがない。
そして、そのとき、この作品は、自分のものになるのではないか、という妙な予感と、この作品が傍にあれば、安心して死ねるという思いを持った。どうして、そのようなことを考えたのか、いまもってわからない。
しかし、それは、いいかえれば、私に、いかに死ぬべきか、ということを、黙示しているように思われてならなかった。

いま、この作品を、何必館の床の間に掛けて、対座していると、限りない感慨が湧き上がってくるが、その一つだけを取り上げてみると、この「太子樹下禅那」との邂逅は21歳のことであったから、なによりも、まず、私の青春を感じないわけにはいかない。
それは又、尼蓮禅河畔、菩提樹下で座禅修行する、若き日の悉多太子の青春に対する憧憬であったのかも知れない。

そこで思い出すことは、その青春時代に「死」を考えたことである。
その「死」は、厭世的なもの、虚無的なものではなく、むしろ逆に、生きることを、はっきりと自覚するために、死を考えるということであった。
そうした、かけがえのない、生きるための重大な問題を、問いかけてくれたのが、この作品であった。この「太子樹下禅那」の一作が、あらゆる私の考え方、仕事の出発点になっている。私にとって、かけがえのないこの作品を生みだした画家、村上華岳を私は知らない。

しかし今、この作品と対座していると、華岳のきびしさ、ゆたかさが伝わってきて、おのずから心洗われ、心あたたまるのである。



年譜



1888 7月3日、大阪天満松ヶ枝町に生まれる。本姓武田、甲州武田氏の末裔。本名震一。
1895 神戸市神戸尋常小学校に入学。叔母村上千鶴子の婚家、村上五郎兵衛方に寄居する。
1903 京都市立美術工芸学校へ入学。
1904 村上家を嗣ぐ。
1907 京都市立美術工芸学校卒業。
1909 京都市立絵画専門学校に入学。
1911 同校を卒業。
1916 京都市東山高台寺円徳院に住む。
1917 洛北衣笠に転居。この頃仏画に筆を染め、静物、風景等を多く描く。
1918 国画創作協会(国展)を結成。
1923 京都を去り、神戸に帰り、芦屋に隠棲。
1925 タゴール翁と識する。「タゴール像」を素描す。国展第五回に「松巒雲煙」出品。
1926 久邇宮家の献上画を制作。
1927 神戸花隈の旧居に帰る。此の頃より画壇を遠ざかる。以後制作は多いが公表は少なくなる。
1934 華岳作品の憧憬者が集り、各自その収蔵作品を持より東京永楽倶楽部に於て展列を行う。
1935 帝国美術院第一部無鑑査となる。
1936 京都美術倶楽部に於て、友人達が作品百余点を展示する。
1939 11月11日、神戸花隈の家居に於て宿痾に悩みながらも「牡丹図」に加筆するため礬水びきをするが、その夜遂に永眠する。享年51才。








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