開館記念 村上華岳展





太子樹下禅那之図 1938年





巒峯茂松 1939年





太子樹下禅那

梶川芳友


誰にも生涯を決定するふしぎな邂逅というものがある。
昭和38年秋、自分の進路に悩んでいた22歳の私は、近代美術館京都分館の「村上華岳の芸術」展に何気なく入った。そこで出会った「太子樹下禅那」の強烈な印象を忘れることは出来ない。
それは絵の巧さ、美しさという次元ではなく、この世の中にこんな人間がいたのか、という驚きであった。私はこれまで体験したことのない、身ぶるいするほどの感動を受けた。「閉館ですよ」と係員に声をかけられるまでその場に立ち尽くしていたのである。
私はこの作品によって、生涯を美術のことにかけようと決意した。と同時に、この画はきっと自分の元に来るという妙な予感が心に浮かんだ。

そして私の華岳を求める巡礼の旅が始まった。
華岳の有無をいわせない力に動かされ “華岳の信者”と呼ばれる全国のコレクターたちを訪ね歩いた。その旅に秘めた思いを受け止めるかのように、生と死、肉体と精神、その矛盾した裏側の深みを凝視する画家の眼が、私を射るのである。

17年後の昭和55年2月、予感は現実となった。私は神戸六甲の山々に見送られ「太子樹下禅那」をだきかかえるようにして、京都へ帰ったのである。
晩年の華岳は、毎夜起こる喘息の発作と、それを抑える劇薬の服用で、肉体的苦痛の極限にあった。しかし彼は、衰えてゆく身を切り刻み、常に相反するものを同居させ、筆を執りつづけていたのである。
尼連禅河畔、菩提樹下で坐禅修行する若き日の悉多太子の画には、苦しみなど微塵も感じさせない。この作品は今も、生きるための重大な問題を問いかけてくれ、あらゆる私の考え方の出発点になっている。
華岳の強靭な精神力は、既成の絵画の枠組みを超えて常に自由であった。その魂は「何ぞ、必ずしも」と常に定説を疑い、自由な精神を持ちつづけたいという私の願いに通じている。何必館・京都現代美術館は、村上華岳のための美術館といっても過言ではない。

7年の歳月を要した美術館の5階には、特別展示室を設け「太子樹下禅那」を掛ける最上の空間となるよう設計した。そして開館記念展は、全館を80点の華岳作品で埋めた。それが生涯に確かな方向を与えてくれた華岳への、私の精一杯の表現であった。
「製作は密室の祈りなり」という華岳の言葉には、芸術の深遠をかいま見た、恐ろしさときびしさを感じる。 作品は人間の戸籍であり、心の遺言である。そこに人間の血に宿る歴史の深層をみるとき、ひとは人生の確かな道筋を発見するのかもしれない。




年譜


1888 7月3日、大阪天満松ヶ枝町に生まれる。本姓武田、甲州武田氏の末裔。本名震一。
1895 神戸市神戸尋常小学校に入学。叔母村上千鶴子の婚家、村上五郎兵衛方に寄居する。
1903 京都市立美術工芸学校へ入学。
1904 村上家を嗣ぐ。
1907 京都市立美術工芸学校卒業。
1909 京都市立絵画専門学校に入学。
1911 同校を卒業。
1916 京都市東山高台寺円徳院に住む。
1917 洛北衣笠に転居。この頃仏画に筆を染め、静物、風景等を多く描く。
1918 国画創作協会(国展)を結成。
1923 京都を去り、神戸に帰り、芦屋に隠棲。
1925 タゴール翁と識する。「タゴール像」を素描す。国展第五回に「松巒雲煙」出品。
1926 久邇宮家の献上画を制作。
1927 神戸花隈の旧居に帰る。此の頃より画壇を遠ざかる。以後制作は多いが公表は少なくなる。
1934 華岳作品の憧憬者が集り、各自その収蔵作品を持より東京永楽倶楽部に於て展列を行う。
1935 帝国美術院第一部無鑑査となる。
1936 京都美術倶楽部に於て、友人達が作品百余点を展示する。
1939 11月11日、神戸花隈の家居に於て宿痾に悩みながらも「牡丹図」に加筆するため礬水びきをするが、その夜遂に永眠する。享年51才。








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