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![]() つばき鉢 1938年 |
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![]() 備前旅枕花入 1958年 |
![]() 双魚絵平鉢 1935年 |
![]() 桃山風椀 1944年 |
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![]() 鉄製置行燈 1949年 |
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坐辺師友 梶川芳友 |
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私の好きな言葉に「坐辺師友」というのがある。 魯山人の世界を見事にとらえた言葉である。自分の周辺の生活空間、自分の身辺にあるものこそが、おのれの師であり友である、という意である。 魯山人自身、自らの眼を鍛えるために、優れた美術品を常に身辺に置き、使いこなすことで、先人の工夫を必死に学んでいたのである。魯山人にとっては、自由にその心を学び取ることが最上の芸術修行の方法であったのであろう。しかしそれは芸術上のことだけではない。日常の暮らしの中で何を身辺に置くかが、生活観を確立する上で非常に重要な要素となる。優れたものに囲まれ生活していると、自ずとその心を学び取ることができる。言い換えれば、身の回りの環境によって人はつくられる、ということなのである。 創作家としての魯山人を表現する言葉は数多い。 稀代の天才書家、篆刻家、画家、作陶家、料理人、そして当代きっての辛口の美学者として、出版人としての活動もその中に含まれる。そのすべてに共通しているのが鑑賞眼であり、あらゆる美を渉猟しつくし自家薬籠中のものとして、まったく新しい美を表現していることである。その世界は極めて自由闊達、自在であり、すべてに「眼」がゆき届いて隙がない。完璧の中に自由があり、見るものを鋭く拒絶するかと思えば、人を癒してくれる慈悲がある。 魯山人はものを観るのに躰全体で見たといわれる。先人の作った古陶磁器や画を観るときの彼は、まるで魂をうばわれてしまったかのように、忘我の極致にいたのであろう。これは制作態度にも窺えることで、一種の憑依とも思われるのである。筆をとると一息に文字をつくる。それは、書という概念にある静謐なものではなく、荒々しい躍動と生命力に溢れたものであった。 しかし、出来上がった作品は、彼の外面や言動から受けるあの傲慢さ、豪胆さというイメージから全く乖離した繊細で虚心ともいうべき光景がその中にみられる。この隔たりこそが魯山人美学の本質ではないか、と私は考えている。 傲慢、不遜、野蛮など、生前の魯山人を知る人の多くは、彼のことを揶揄する。しかし私は逆に、魯山人の中に、美に憑かれ純粋無垢に生涯修業を続けた、穢れない精神を見るのである。 近代芸術家の中にあって、私は魯山人の精神、作陶に、人の求めるべき道があるように信じるのである。 |
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年譜 |
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